私自身の変化(「これからは、ストーリーでリーダーシップを発揮する」ふりかえり⑥(最終回)
今回、私はストーリーテラーをさせていただいたため、幸いなことに皆さまから私のストーリーやあり方に対してフィードバックをいただくことができました。
そこで、私自身のミッションについての認識が、変化しました。
「全体性を取り戻すためのヒーラー(癒やし手)」
としての自覚が、芽生えたことです。
■癒やし手
癒し手がすることは、いつもニコニコしながら、やたらめったら「大丈夫だよ」等と言う者ではないと思っています。むしろ、それは、対症療法的で、本質から眼を反らさせるという意味で、癒やしとは逆のものだからです。
たとえば、何かを変えようとしている人が、多くは現実とのギャップによって抱える痛みに寄り添ったり、自分を大切にしない行為にNOとはっきり伝えたりすることなのかな。
メアリーアリスさんからは、様々なストーリーの中にパターンとして出くる「Wounded healer」という概念を紹介されたので、よく調べてみようと思います。
ちなみに、面白いと思ったのは、今回生まれたストーリーの視点から、私の過去を改めて振り返ると、私がヒーラーである要素・エピソードは、これまでの人生の中に、既に散らばっていたように見え始めたことです。これは「未来のストーリーは、過去の意味を変える」という示唆として受け取ります。
■「全体性を取り戻す」
社会包摂という言葉がありますが、包摂する対象として認識されていなければ、それはそもそも包摂されません。
社会には「定義されない苦しみを察知し、寄り添う者」が必要だと思っています。
最近では、発達障害やLGBT等という言葉によって、存在することが知られてきた人たちがいます。
社会に少なからずいる人たちは、そうやって類型化することができます(類型化することが本当に幸せなことがどうかはわかりませんが)。
一方で、そうやって定義されていなくても、社会の「当たり前」と、真に自分らしいあり方とのギャップによって傷ついている人は、少なくないと感じています。
そこに立つ者は、それをひた隠しにして、"普通に"生きることもできますが、なぜ・どう苦しいのか、概念化・言語化されている領域が少なく、共感はおろか、存在していることを認められずらいものです。
これは私が誰かに対してヒーローぶっているのではなく、私の中にいる、そのような自分を大切にするためです。
それは捉え方を変えれば「エッジに立つ」ということだと思っています。エッジとは、境界、端です。
私の場合は、好奇心に掻き立てられて、定義された領域の端っこに立っていることが、あります。
例えば、私の主戦場のひとつであるローカルと公共、その真ん中にある「地域の市民活動」は、特にエッジーです。行政でも、NPO法人でもなく、また、昔ながらの誰かに何かを要求するようないわゆる「市民活動」でも、個人ボランティアでもないのです。公共的ですが、自分たちで資金調達をしていて、ビジネス的でもあるケースもあります。ローカルで草の根的ですが、同時に、世界の先端を見据えているものもあり、私の知る限りでは定義されていないもののオンパレードで、いつもワクワクしています。
■最後に
ストーリーテラーという大切な役割を提案してくれたゆりさん、
私の頭の中を花火大会にしたり、大渋滞にするようなアートを共有し、また個別相談までしてくれたメアリーアリスさん、
(コレクティブストーリーハーベスティングの提唱者の知恵に触れられたのは本当によかった)
その場にいたひとりひとりに心から感謝します。
またお会い同じサークルの中でお会いできると嬉しいです。
また巡り会う時まで
ヤッターー
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