手放して、取り戻すこと(2017.9.13NPO法人DNA「未来の教室」ふりかえり)
群馬県桐生市の高校で、キャリア開発などを目的として、学生と社会人でストーリーを聴き合うワークショップの手伝いをしてきました。
会場は体育館で、皆で座って輪になりながら話します。ストーリーを語る役の方々がいて、私は、それを自分で選択して聴いてきた高校生と一緒に、気づきや学び、高校生自身のストーリーを収穫する役をしました。
思ったのは、こうです。
規範、期待、思い込み、レッテル、選ぶことなく与えられた条件、複雑な人間関係や環境。
私たち大人は、例えば、そういうもので、
『自分の人生の中心が、
自分の中にないような想い』
を高校生にさせてしまっている。
本当は、その大人たちも同じ思いをしているのに。
大人は小賢しく、そんな思いを隠して、"うまいバランス"をとったり、無関心を装ったり、自分の本心を見ないふりをしているように思ってしまいました。
そうやって、高校生だけじゃない、自分自身をも苦しめる「自分を大切にしない我慢競争」のシステムを日々再生産している。
高校生の素直なあり方と接するに、そんな思いで、深く反省せざるを得ませんでした。
少なくとも、今日会った学生たちは、
「自分は傷ついている。怖いよ。」という表現が、できていました。
それが、傷つけ合う世界が崩れ落ちていくはじまりの瞬間だろう、と思って。
私たち大人は、高校生から学ぶべきです。
やや、というよりは、
学んでしまったものを手放して、もともと備わっているものを取り戻すべきだと思いました。
手放すのは、体裁、虚栄心、机の上での説得や、点数をとるためにしか使えない知識、、。取り戻すのは、素直さ、優しさ、共感すること、好奇心を持つこと等ですかね。
私は、人と人が剥き出しに、互いの根本的な想いに接しあうことができれば、きっと変わるべきものは変わり、起こるべきことは起こると思っていますが、かっこつけて変われない大人よりも、今回会った高校生のほうが、それが得意だと感じました。
今回、なにかお互いの抱えている問題について、具体的な解決策を出すわけではなかったけれども、ハイタッチした後の去り際、なにか解放されたような、湧き出るものを感じずにはいられない表情から読み取るに、「この人は、きっと大丈夫だろう」と、私は信じてます。
また、いつか会えるといいな。
それにしても、泣きすぎた。最近泣き虫すぎる
■今回、自己紹介でつかった紙芝居
学生の自己開示を促すために使いました。
■NPO法人DNA「未来の教室」
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