「関わり過ぎる」という愛みたいな暴力

俺の役目は、人のことを代わりにやってあげることではなく、その人がしたいことを自分でできるようになるように、寄り添うことです。

それにもかかわらず、頼まれてもいないことを勝手にやって、本人に「やってあげた」と贈りつけることが結構あります。


ありますというと知っていたみたいですが、素直に反応してくれた人に気付かされました。

それは愛じゃない、その人の可能性を削ぐ、暴力になりえます。


俺の場合、この「関わり過ぎ」という行為は、関係が近い/近くなりたいと思っている人にほど、起きる傾向があることを発見しました。

つまり、俺は、これまで、近くにいる、いて欲しい人たちこそ、傷つけまくってきたのかもしれません。

残念ながら、今となっては、たくさんの思い当たりがあります。

さらに言うと、こんなことを人に発信した記憶も蘇ってきます。

「暴力を振るう自分がいることに気付いたんだよ。俺って最低。それで俺は落ち込んでるんだよ。」

そんな歪んだ表現は、俺自身のナルシシスティックな自己満足のためでしかありせん。


どのように関わるのがフェアで平和的なのでしょうか?



今のところ、俺がやってみているのはふたつです。

■ニーズに耳を澄ませる

「手をさしのべてあげる」のではなく、
きちんと、相手と自分のニーズを聴き合って、お互いに支え合えれば、いいですよね。

「助けて欲しい」
「愛したい、愛して欲しい。」

そこに、向かっていくのではなく

そこから、始めればいいですよね。

まずそこでつながって、
そのために、私たちは一緒に何をしようか。

■伏せ目がちに深く信じる

これは、、言葉にするのが、難しいけれど、、

思い出されるのは、リストラティブ・サークルをホストしている時の、カール・ステヤートさんのartです。

対立を修復しようとする当事者たちの間にいる時のカールは、私の当時の走り書きによると、こんな感じでした。
目から光を落とす。

当事者に目線で助けを求められても、伏せ目のまま。

手はポケットに隠して、少し、うなだれるような姿勢で。

でも体は閉じていない。足は軽く組んで、自然に、斜め下へ流しておく。

ただ、本人たちの自力を深く信じて、そこに在り続ける。



(ただし、場が歪んだまま閉じそうだと感じた場合は、リフレーミングなど、より能動的な働きかけをしていました。)

これを参考に、このまえ、OSTの場をホストした時に、自分なりにやってみたところ、私がしたいことのためには、効果が高いみたいです。場のオーナーシップを、進行者から当事者へと移して、自力を高めるなどの効果があると感じました。

ただ、ホスティングに相当なMP(マジックポイント)使います。私は、次の日、1日起きられませんでした。。そのくらいの奥義です。



あなたの身近に、関わり過ぎ/関わられ過ぎ、という愛みたいな暴力はありませんか?
あなたは、それらと、どう関わりますか?

まだ語られていない物語は何ですか

ご覧いただきありがとうございます。反町キヲイチロウのブログです。群馬ローカルのママチャリで行ける範囲で、参加型の場づくりを練習しています。

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