私は自分の勇気のなさを、私だけのせいにしなくていい
最近、自分自身のあり方に対するフィードバックとして「強いね、勇気があるね」というのと、「繊細で傷つきやすいね」という、一見矛盾している言葉をいただくことがあります。前者には、実はどこか違和感があって、「俺に勇気があると感じるのかぁ。」みたいな反応をしてしまいます。
特に「わたしはあなたみたいに強くない、勇気がないからできないよ」とか、言われると、「んー。」ですね。
たとえば、「周囲がYesと言っても、自分がNoだと思ったら、Noと言う私のふるまい」に対して、居合わせた人から、「あなたは強い、勇気がある」と言われたことがありますね。あまり深くお付き合いのない人とか特に、その感じで言ってくる気がします。
そこで、自分に問うてみたんです。
もし自分が「強い」のだとすれば、その「強さ」を、支えているのは何だろうか?それはどこにあるのだろうか?
うーん
Yesを推す多数派がいても、自分のNoを押し通そうとする私の個人の力が、私の中にあるのか、、
うーん
それはなんだか違くて、私は心身ともに弱いと思っています。怖いことからは逃げたり、我慢するとお腹を下したりします。
両親によると、私は子供の頃に、公園の砂場で友だちにおもちゃを取られても、なにも言えなかったそうで、それを見た両親が私の根性を叩き直すために、私を空手教室に入れたという、そんなエピソードがあります笑。しかも、練習が終わった後、お母さんが時間通りにお迎えに来なくて、不安で泣いたことを今思い出しました笑
たぶん、もともと気が弱い人格の持ち主なんです。
そんな暴露はさておき、、
もし今の自分が「強い」のだとすれば、その「強さ」を、支えているのは何だろうか?それはどこにあるのだろうか?
こんなものかもしれません。
聴きあえる関係性が、私と他者の間にある
たとえば、「みんなはYesだけど、きみはNoなんだね。うんうん。」と、私の声を聴いてくれる人が、私の近所にはいます。あるいは、私が大切なことを言葉にするまで、優しい沈黙をくれる人もいます。
つまり、誰かにとって、私のふるまいが強く見えたとしたら、その強さは、私自身の中にあるわけではなくて、私とその周りにいる人たちの間にあって、支えられているものなんです。
だから逆に、私は、自分が強くなれない・一歩を踏み出せない時、自分を反省するだけではなく、「ああ、今は、勇気が出づらい環境や関係の中にいるのかもしれない」と考えてみるようにしています。
そして、そんな環境や関係をよりよくできるなら、それを変えていきたいと思うんです。
与えられた環境に合わせるために、自分を押し曲げたり、無理やり勇気を持つように焚きつけたりするのは、つらいから。
だから、
皆にとってより良い環境や関係を、皆でつくるためには、どうしたらいいのだろう?
それが私の大きな関心のひとつみたいで、
そのために、失敗しながらも、オープンに(一部の人だけではなくみんなで)、安全に大切な話をできる場をつくろうとしているのだと思います。
そして、それができる人を増やしたいとも思っています。
ちなみに、そこでしていることは今思うに2つあって
・内省:自分の内部から来る声、それに耳を澄ませること。それを私が「勇気」と呼ぶのなら、奥に眠っている勇気を感じること。
・対話:今私たちを取り囲んでいる環境は、本当に私たちが望むものなのかを問うこと。もしそうでないのであれば、それを変えるためのアクションを共に起こすこと。
たとえば、今話しているテーマであれば、こんな問いになるかもしれませんね。
お互いの勇気を応援する関係や環境をつくるために、私たちはどのように関わっていくべきなのでしょうか?
こうして、実際の生活の中で何度かパターンとして現れた違和感を見つけて、それについて自分との対話を繰り返してみると、自分の中にある大きな関心に辿り着くものですね。面白い。
内省はつづく…
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