自然体ってどんな状態?
桜がきれいです。勤務地の群馬県中之条町は、「ふるさとに逢えるまち」なので、写真のようにクラシックなジャパン感。
メタ認知好きの私は、つい「桜を見る自分を見る」ということをして、こう思います。
ああ、春におめかしした時ばかり見上げて写真を撮るんじゃなくて、日々の中で足下で動いていること、小さくてかけがえのない変化にもっと気付けたらいいのにな。
写真に収めても、プリザーブドにしたりしても、それはもう過去の断片。ああなんか自然じゃないなって感じがします。
いくら過去を懐かしもうが、私たちの生きる時間は前に進みます。ですから、終わるべきものを終わらせ、始まるべきものが始まる循環をムリに止めずに、受け容れることのほうが、なんだか気安く思えてきます。それは自然なことだからです。
花が朽ちて、種が落ち、また新たな芽が出られるスペースを持つこと。
つまり、変化し続けることの中にある、動的な秩序に安息を見ること。
(それを持続可能性と呼ぶような気もしています。)
…
その帰り道、思い出したのですが、
老子のこういう言葉があります。
「大道廃、有仁義。智慧出、有大偽」
(大道廃れて仁義あり。智慧出でて大偽あり。)
真の道がすたれて
仁義や正義がやたらに強調されている。
智慧がはびこって回り
大きな偽りが生まれた。
老子は、儒家思想をディスっていたようで、意味するところはこんな感じだと聞きました。
「わざわざ、やれ仁義だの正義だのを強調しなければいけないのは、今の人々の心にそれがない証拠だろう。
本当は、それは誰しもの心に、自然に備わっているものなんだ。
周りから強要されなければいけないものではない。そのことこそ、人としての真の道が失われたということだろう」
なんか、自然体でいればいいや、いたいな、と思うのですが、
「自然体」ってなんだろうと思うのでした。
…
あと、真の道ってなんなんですかね。あまり自分にはしっくり来ない言葉ですが、老子は、こう考えたみたいです。
「上善如水」
(上善水の如し)
水のようにあることが、最高の善、真の道である。
常に形を変え続け
ひとと争わず、常に低くあるが
そのしたたる一滴で、岩をも穿つ。
生命をつなぐ大いなる流れでもある。
(地球から水がなくなったらどーなるか考えるとかえってわかりわすいのでしょうか。)
そんなことで、今年度はとりあえず老子の言葉を参考に
自然体で水っぽくを過ごしてみようと思います。
自然体ってなんなんだろうなぁ…
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