起承転転でも大丈夫だヨ

最近、モノガタリ、モノガタリと繰り返し発信しているのは、今、自分のアンテナがどっちを向いているかの開陳です。
 
自分が物語について何かを知っていて教えたろうか、みたいなのと全く逆で、「最近私は物語とかいうものに興味があるから、情報あったら共有しほしいですヨ」という意図です。それがけっこう機能するので、嬉しいです。

それで。最近、いただいたヒントから断片的に考えたことがつながってきたのでブログにしてみます。


最近、やたらストーリーや物語という言葉を、自己啓発やビジネススキルで紹介されていて、「ものがたり」だから「語る」ことにばかり、私は注目していたので、はっとしたことがあります。

この前「反町はこういうことをしたいのでは」ととあるサイトを教えてもらいました。皆が人生のストーリーを投稿しあうというもの。

一見好きそうでしたが、なにか違和感がありした。いくつか読んでみたら、キチッとした構成のキラキラトークが展開されていて。それは、なにかこう、まるでプリザーブドフラワーみたいな印象でした。防腐処理されていて、静的なもの。なんだか、変化が起きる感じが、しない。

そんな違和感が、

「共に変化すること」を大切にする私にとって、

物語を扱う素敵さとは何かを、言葉にさせてくれました。それはこうです。

「物語がつくられるプロセスの中で、人々が生成的になって、集合的な智慧にふれること」

それは誰かと一緒に生け花をするように、生ものを扱う、ダイナミックなものです。

たとえば、私によると、物語を語ることって、「起承転転」みたいな感じでもいいと思うんです。もちろん「結」があってもいいですが、それがないからと言って語りたいものを語らないというのはもったいない。
「これは今の私にとっての現実で起きたことで、解決策はないことなんだけどね」と語ろうとすることが大切なのかなと。
語り尽くせないものを語ろうとする姿勢。まだ言葉ならざるものを言葉にし、点と点を線で結んでぐねぐねと蛇行しながらストーリーにしようとする姿勢。
新しい意味の流れが出現しつつある、その変化の瞬間に、私は魅力を感じているようです。

そして、そんな生成的な語りを成立させるために、

とても重要なのが、よき聴き手の存在です。

「わかりやすく伝える」等と、私たちは意味を共有することを、話し手個人のスキルに頼り過ぎたのではないかな。私たちが掴み取った新しい発見や大切な意味は、多くがまだ言葉になっていないし、まして、わかりやすく伝えるなんて、なかなかできないから。もし私たちがもう少しでも、わかりづらいことを互いに聞き合えたならば、言葉の奥にあるものを感じとるリテラシーを身につけられたならば、私たちは一緒にもっと創造的になれると思う。
※5/16の私のメモ

プラス、この前、聴き手のあり方について、見事な言葉になっているのを見つけました。語り手を生成的にさせる聴き手になるための要件とも読めます。
物語能力narrative competenceとは、語られることの背後にはつねに語られないこと/語り得ないものがあることへの畏れと謙虚さを保ちながら、多重/多様な聴き方に開かれていられることではないか、とも感じます。決して聴き切ることはできないという自覚と、それでもなお聞き届けようとする献身commitmentという物語倫理narrative ethicsが、そこには深く関わっているはずです。
(https://narrativeassembly.com/node/168)

シンプルに言って、聴き手が話のオチのなさを責めたり、「わかりづらいな」と言ったら、語り手はもう話せないですよね。

語りは終了し、新しいアイデアも変化も、その人の中に閉じ込められたままになります。


そうではなく、補ってオチを一緒に探ろう、つくろうとすること(別にオチじゃなくてもいいですが)、隙間を補うことが大好きな私たちの脳みそを同期させて、知恵を集めてつなげることが大切です。それが集合知。私たちの物語。

ああ、そうすると、私がキチッとした語りに感じる虚しさは、共に紡ぐことを許しづらい、そんな「隙間のなさ」にあるかもしれませんね。

あなたが大切にしたい「物語の使い方」どのようなものですか。それはなぜですか。

まだ語られていない物語は何ですか

ご覧いただきありがとうございます。反町キヲイチロウのブログです。群馬ローカルのママチャリで行ける範囲で、参加型の場づくりを練習しています。

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