たぶん、私たちは誰かを傷つけずに生きていくことはできない

ご近所で対話の場がウィルスのように広がってきています。パンデミックはまだですけど…

私も私の周りの人も「ファシリテーション」とかは知らないけど、「大切な話をするための器づくり」を知っている人が増えている感じ。それを「ホスト(もてなし役)」と呼んでいて、あるホストから次のホストへ、どんどん飛び火してます。

それで、この前開催された場のホストは友人のれんくんで、問いはこうでした。

「良い人間関係をつくれたと思った時はいつですか?」


今回気づいたことをメモしておきます。

私は、「自分が優しくなったら、誰かを傷つけずに、私も傷つかずに済むのではないか」と思って、努力してきたのかもしれません。

だから、今まで私の中にあった問いは、こうでした。

①傷つけないように/傷つけられないように生きるために、私は、どうしたらいいのだろうか?


でも、今回話してみて、この問いはなんというか「機能しない」感じがしてきました。

思うに、

たぶん、私たちは誰かを傷つけずに生きていくことは、できません。


過去の人間関係を思い出していくと、誰かを傷つけなかったり、傷つけられなかったりしたことがないから。
そうでない、つまり、誰も傷つかない人間関係を、まだ私が経験したことがないだけかもしれないから、「たぶん」だし、「私たち」は言い過ぎだと思いますか。

そんなゆらぎは残しつつも、とりあえず今、このブログのタイトルの仮説に立てば、私(たち)が考えなくてはならない問いは、こう出てきます。

②傷つけあいながらも共に生きるために、どうしたら私たちは互いを癒すことができるだろうか?


傷つけあうことは避けられないのだから、その後にどれだけ回復できるかか問題になってくるという考え方です。



それぞれの問いの後に、どのような行動や関係性が出てくるかなと考えたら、後者の問いはそんなふうに交流と試行錯誤をさせる勇気を、私に持たせてくれるなーと思いました。

まだ語られていない物語は何ですか

ご覧いただきありがとうございます。反町キヲイチロウのブログです。群馬ローカルのママチャリで行ける範囲で、参加型の場づくりを練習しています。

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