対話なきデザインは裸の王様、デザインなき対話は衆愚(になるかも)
ワークショップで「話しておわり」。そこに残されるのは、意味のない大量のふせんや絵…。
デザイナーにお願いして、見た目におしゃれなだけのアウトプットが出てくる…。
そして、現実は、なにも変わらない。(がびーん)
というのを私は数多くやってきてしまったと思っています。そろそろ、そういうのを卒業したいものです。
そんな探求のために私にとって意味深くなりそうなプロジェクトがはじまりました。
Takasaki生ごみリデュースプロジェクト
家庭ゴミの水分を減らしたくなっちゃう道具を考えるプロジェクトです。市民が対話し、そのアイデアを、デザイナーが収斂します。
いま、私たちの家庭から出ている生ゴミの水分は、「ちりつも」で、高崎市だけで年間で十数億円もの見込み損を生んでいます。水を運んで燃やすために、税金と化石燃料と時間を使っているとは、なかなかに笑えない現状があるのです。
そこで、昨日、そのキックオフワークショップをしました。お兄さんからおばあちゃんまで60名ほど、様々な方が参加され、終わる時の場の昂揚したムードは、「何か素敵なことの始まりだ」ということを確信させてくれました。
それを振り返って思うことを書きます。
対話とデザインの関係
少し前に「対話とデザインはU理論の谷をこっちから見るか、あっちから見るかの関係」という話を聞きました。確かにそうかあ、と思って。
それを踏まえて、昨日、私は「対話とデザインは、お互いを補完しあってインパクトを生む」という持論を強くしました。
いくら良いデザインのものがあっても、皆が参加するプロセスから生まれるストーリーがなければ、意味のある変化は生まれない。見た目と機能がいいだけで、みんなのものにならない建築物とか。
そしてその逆も然り。
私はどちらかといえば対話が見過ごされていると感じています。「みんなが自分のものと思えるストーリー」や「コミュニティー」「人と人の関係性」は、本質的にデザインできないものだと思っています。それは人と人のコミニケーションの中から「立ち現れてくるもの」と考えるからです。この辺がユー理論的。ゆーゆー。
(ただし、それが生まれうるきっかけや場をデザインすることは可能です。「みんなでみんなのストーリーをつむぐための場づくり」「皆が参加できるプロセスをつくること」。それが私の仕事です)
デザインなき対話の末路
それは「話しておわり」です。そして、大量のふせんや、美しいだけの絵が残される…。アウトプットばかりで、アウトカムやインパクトが描かれていないのです。特に収束段階でデザインの力がないと、意味のある変化、そのためのアクションにつながりづらいと感じています。
こんなエピソードを聞いたことがあります。皆で対話を重視してリノベーションした物件がありました。
「確かに、そこはみんなのものになった。自分ごとになって、汚さず、ごみは持ち帰る。でも、空調が全く効かなくて、ダンボールを貼ってるんだ!」
対話とデザインをつなげよう
私はなぜか「デザイン」なるものへの忌避感があったのですが、どうやらそれは「デザイン」が嫌いなのではなく、たまたま私の狭い経験で会った「デザイナー」なる人が嫌いだったのだということがわかってきました。もちろん全ての人ではないのです。
ただ、たまに「デザインで人々を動かせる」「コミュニティはデザインできる」というような、上から目線と品のなさが私をイラつかせることが、たまにあるのです…。
あと、「デザイナーにまかせれば、なんとかなる説」があると思っています。この風潮って、私の近所だけなのかな。デザイナーの人も困るのでは、、。
ただ、対話とデザインの分断こそが、対話とデザインが、社会に変化を起こす力を損なわせていのかもしれません。二項対立的に書くと問題を助長しかねないリスクを覚悟した上で書くと、私はこう思います。
対話する人たちと、デザインをする人たちの協力がもっと必要です。
デザインがアイデアを、見えるもの・触れるものへとプロトタイプする力ってステキだなと思いました。
皆で対話して紡ぎ出したストーリーをアンカー⚓️するものとして、グラフィックやプロダクト、建築をデザインするのがいいのかな
逆に、どんな変化を起こすかをデザインしたうえで、そこに向かって対話をすることもできますね。
私もデザインの言語を学ぼうっと。
今回見たふつうの人のチカラ
余談ですが、終了後の飲み会で、今回お仕事をご一緒するステキなプロダクトデザイナーの方とこんな話をしました。
『デザインロジックで言えばこの辺に着地してくるだろうというアイデアと、席をシャッフルしながらブレインストーミングをした「ふつうのひとたち」の中からどこからともなく現れてきて、みなが「これこれ!」と指差すアイデアが、近似している。』
集合知ってすごい。
あと、私としては、「それらが近似している」ということがわかる人が、場にいることって大切だなあと思いました。
つづく。
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