「気づいたもの負け」の世界の中で①
先日、リンダグラットン他の『ライフシフト』の読書会をしました。公務員仲間でやったので、みんな公務員です。
会場は深谷駅から歩くこと数分のこちら。
さて、話し合いの内容は、必ずしも100年ライフの話だけではなく、大きな組織の中で働く者としての「生産的なグチの言い合い」でした。
場は、明るく笑いが絶えませんでしたが、
底の方にある種の「痛み」の空気が漂っていた
と私は感じました。
そんな中で、当日の一番のバズワードはこうです。
「気付いたもの負け」
ライフシフトの本筋とは違うのですが、今回は、この話をします。
最初に断っておくと、今回の参加者の関係性、主観性の中で起きた発言ですので、公務員業界一般の状況を揶揄するものではありません。
また、この言葉の意味について考えると、人によって色々と思うところは違うと思います。
- 何に気付くのか?
- 勝ち/負けとは何か?
その上で、私によると、この言葉が意味するところをストレートに言ってしまえば、こうです。
「いくら個人が自分の中心を、自分の中に取り戻そうとしても、それを許容する可能性が、外の世界(組織や社会等)の中に見出せないなら、新しく希望に気づいた分だけ、個人の内部で絶望が広がるだけではないか」
私は、私の人生でひとつの岐路となった、かつての仕事のことを思い出していました。
学習塾講師をしていました。その頃、ある種の「知的に、個性のある子」を担当したことがあります。その子は、皆と同じように振舞ったり、ものを覚えるのは苦手なようでしたが、虫の絵が得意で、漫画家か、絵描きになる才能があったと思います。(観察していた私によれば、です。)
しかし、私は、「自分の個性を大切に、好きなことをして生きよう」みたいなことは、言えませんでした。
なぜなら、社会が、彼に対して、彼自身ではなく、社会の部品になること期待していたからです。
本来カラフルな子どもたちを、むりやり金太郎飴に仕上げていくような"教育"です。全体性があって、そこに個性を押し込めていくようなやり方です。
彼の友人、教師、学校、家族、地域社会、学習塾、それらを取り巻く教材販売などのビジネスが、彼に「優秀な部品」になることを期待していました。その期待に応えることで、私は金を稼いでいたのです。
その"優秀さ"とは、 数字でわかりやすく評価できます。要は、決まった答えに近づくほど評価は高くなるのです。結果的に"優秀な人"は、同質性が高くなります。
私も彼に対して、そう期待をしていました。今思えばグロテスクな話ですが、当時はそうすることが、彼の幸せのためにもなっていると、私は本当に考えていたのです。彼の「勝ち」のためだと。
ですから、そんなシステムの中で、当時の小さな彼は、自分の中に自分の中心を感じ、また、生きやすい社会を描くことは、おそらくできなかったでしょう。私がさせませんでした。
その中で、彼にとって「自分らしさを隠して、長いものに巻かれる」ことは、やむを得ない生存戦略だったでしょう。
そこでは、「自分を大切にする希望」に気付くのは負けで、それを表明するのは大負け、「期待」を優先することが勝ちだったのだろうな、というのは、今思い返していることです。
この話から私が言いたいのは、このテの「気付いたもの負け」話は、別に公務員に限った話ではないだろうということです。
こういった、思い込みや規範による構造的な暴力は、社会のあらゆるところ、世界から家庭の中まで、様々なスケールでも起きているように、私は思っています。
多くは、見えづらい、深い痛みを伴って。
今回、話題のひとつとして、「人生のテーマ」がありましたが、私にとっては、ひとつはここにあります。
つまり、
「気付いたもの負け」の世界を変えるために、私たちは何ができるのでしょうか?
つづく
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