「気づいたもの負け」の世界の中で②

前回は、こんな問いかけでおわりました。

「気付いたもの負け」の世界を変えるために、私たちができることは、何なのでしょうか?
私によると、この言葉が意味するところをストレートに言ってしまえば、こうです。「いくら個人が自分の中心を、自分の中に取り戻そうとしても、それを許容する可能性が、外の世界(組織や社会等)の中に見出せないなら、新しく希望に気づいた分だけ、個人の内部で絶望が広がるだけではないか」

ここに、私の最も強い関心のひとつがあります。

個々の変容を受け入れられる「器」を、どのようにつくるのかということです。


そのことについて、たまにこういうやり方を教えてくれる人がいます。結構います。

「いつか偉くなって、組織を変えたれ!」

まず断っておくと、ありたい未来を実現する道筋は、色々とあろうかと思うので、基本的には、それぞれが自分が信じた道を進めばいいと思います。
目指す姿や状況によって求められるリーダーシップは変わってくるはずなので、一概に否定されるべきやり方はないと考えています。

その上で、そういう「いつか偉くなってから、変えよう」的な考え方に対して、私はこう思います。

変え方が、変わっていない。


もちろん組織の何を変えたいのか?にもよるのですが、、

その考え方においては、

少なくともヒエラルキー型の組織像、つまり「個人ないし一部の人が、権力を持ち、その一方的な上から下への影響力によって、組織の制度・ルールを、変えて行く」という、組織や社会に対する捉え方の前提は変わっていないのです。

我慢と忍耐が必要になりますよね。組織を変えられる権限を持つまでは、自分が違和感を持っている組織や規範の真ん中にいないとなのですから。
また、基本的に変化というものは(まして、外発的なものは特に)拒まれますから、あなたがルールを変えたとしても、その命令を受けた人たちにとって変化が急であれば急であるほど、その揺り戻しは強くなることが想像できます。その時、「偉くなったあなた」への負担は、とても大きいのではないでしょうか。

ちょう自己犠牲的な精神の持ち主はそれらをかいくぐれるのかもしれませんが、

私は、気が弱いし、おなかも弱いから、そのやり方では、とても疲れてしまうし、体を壊してしまいます。

あと、わたしの後に続くものを考えると、疲れないやり方のほうがいいと思って。自己犠牲の上に成り立った変化は、また次の犠牲を必要とするでしょう。たぶん。

だから、わたしは、いつかの変化のために自分を耐え忍んだり、犠牲にするのではなく

自分に優しいやり方で、今、始めたいんです。


だから、

たまごパックくらいの強度のハートの持ち主のくせに、下手くそなくせに、「やったことのない人からの評価」で粉々になった気持ちになりながらも、練習しているんです。

なにを練習しているかというと、

私が気持ち悪いと思うのは「人ないし一部の人が権力を持ち、その一方的な上から下への影響力によって、組織・地域のルール(制度面)を、変えて行くこと」ことなので、
安直に逆にするとこうなります。

「みんなが、それぞれの意味や価値を持ち、双方向の影響力によって、組織・地域のコミュニケーション(運用面)を変えて行くこと」


言葉を換えればこうです。

・全体性が先立って個性を定義するのではなく、個と個の相互作用によって新たな全体性を育むために、なにを学ぶべきだろうか?


・システムにポジティブな変化をもたらすために、私たちは、どのような働きかけをしたらよいのだろうか?


その答えに近づけば近づくほど、「気付いたもの勝ち」

いや、勝ち/負けなんていう言葉は使わなくていい世界になるはずだろうな、と思っています。

そのために、
私は、いや、

私たちは、現場の地面に素足で立ってるんです。




私のノートがそこまでたどり着いたところで、ちょうど高崎線も終着駅に近づきました。

今回伺った、埼玉県深谷市は、夕暮れに沈んでいく味わいある町並みが本当に素敵で、、

また大切な話をするために出かけたいな、と思っています。


追伸
夕焼けに「ライフシフト」を読んで、日が落ちたら「夜と霧」がいいかもしれない!

まだ語られていない物語は何ですか

ご覧いただきありがとうございます。反町キヲイチロウのブログです。群馬ローカルのママチャリで行ける範囲で、参加型の場づくりを練習しています。

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