「生きてる感じ」についての内省
昨年末に、親密な空間で、未来から過去を振り返るというワークショップを実施しました。(詳しくは最下部のリンクから)
少なくない参加者が、はじめは知らない人同士だったけれど、最後は、大きな家族のような温かい関係となったように見えました。
その感想として、自分から出てきた言葉が
「なんだか生きてる感じがする」
というものでした。
なんだか、なんです。だから言葉にしたい。その「生きてる感じ」は、私にとって大切なものだから。
それで、年末年始、こんな内省を続けていました。
私の「生きている感じ」って、なんだろう。逆に、どんな時に私は「生きていない感じ」がするのだろう?
それが、あるところまで至ったので一旦共有します。
これについて考え込んだというよりかは、その問いをいつも頭の片隅に置いておいて、日々を普通に暮らしただけです。
たとえば、井野川沿いで生えている雑草はなんか生きてる感じがするな、とか。あの料理人が作ったカレーも生きてる感じがするな、とか。
水耕栽培は、生物学的には生きてるけど、私からすると、あんまり生きてないな、とか。
それでいくつか印象に残ってるのが以下です。
フレッセイで買い物をしている時に、冷凍の鮭の切り身を見て思ったんです(群馬のローカルスーパー「フレッセイ」知らない人はいないでしょうね)。
カマ、腹身、尻尾。一口に切り身と言っても、色々な部位があります。もう生きていない。
解剖した魚の「部分」を見るだけでは、彼がそのもの「全体」として本来持っている、いきいきとした躍動感や物語性を、感じることができない。それぞれが有機的につながってはじめて、そこに命がある感じがする。
バラバラにしたら、生きてる感じがしない。
では、全ての構成要素を同じに整えたら、それは生きているのだろうか。
違う。テレビで見たお菓子工場も生きてる感じがしない。そこに夢やファンタジーのようなものがあろうと、皆がベルトコンベアに乗せられて同じものに仕上がっていくのは、生きてる感じがしません。
大義があろうと、みんなが同じ時間に起きて、同じ制服を着て、同じ時間に、同じ仕事を始めるのもそうです。
全部が同じだと、生きてる感じがしない。
んー、今のところ、私の「生きている感じ」の要素は、こんな感じです。他にもありそうですが。
- 多様な個があること
- それらの複雑な相互作用による絶え間ない変化があること
- それらの全体としての調和があること
そうすると、今こんな問いにたどり着いています。
私は生きているんだろうか。
私たちの社会は生きているんだろうか。
なにかを悲観したいわけじゃないんです。生きている感じを、精一杯に味わいたいだけなんです。いつかじゃない。今ここで。
「生きている状態」ってなんなんですかね。今のところ、生きているか生きていないかは、白か黒かじゃなくて、濃淡みたいに見えているんですけどね。
あなたは、どんな時「生きている感じ」がしますか?
※ワークショップ後の私の感想
※当日の流れ(一緒にホストをした早野さんがまとめてくれました)
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