【これからの時代に必要な「関わり方」と「学び」】信じて寄り添いながら、静かな時間をともに漂うだけで、私たちは十分に学べる

これからの時代に必要だと思う「関わり方」と「学び」の話をします。

■まず前置きとして、こんな例え話があります。
夏場に冬の例えですみません。

雪かきをするために、どんな道具が必要ですか。

んー。

もし雪が降る早さ、量、質等が予測ができる時、どうしますか。

多くは、予測・分析して、計画を立て、最も適した形のスコップを持とうとします

逆に、全く予測ができない時、どうしますか。

誰も経験したことがないくらい多く、固く積もったらどうしますか。
硬い雪を砕くための尖った鉄製スコップ、砕いた雪を運ぶためのプラスチック製の幅広なスコップ、様々な形が必要になるかもしれません。

それ以外にも、さまざまな想定外のシナリオがありえます。

この状況下で、同じ形のスコップばかりを準備するのは、変化に対応できないリスクを高めます。

逆に、「使えるかわからないけど持ってきちゃいました」というものすらも役に立つ可能性があります。


■それぞれの状況下で生まれる「関わり方」は、どのようなものでしょうか。

前者の場合(予測できて答えが明らかな課題への対応をする時)は、違いはエラーです。

・分析結果に基づき、議論し、ベスト=正しさを決める
・それと異なるものは、間違い
・最も正しい人が偉いリーダーとなって、その他に正しいことを教える。
・力を一箇所に集めて効率化する。
・指示・命令系統をつくり、管理による安定性をつく?


後者の場合(未知・不確実で答えをまだ知らない問題への対応をする時)は、違いはパワーです。

・ベストはわからないが、試行錯誤しながら、ベターな道を探る。
・それぞれが持つリソースに興味を持って学び合い、共有する。
(「あの人はなにを持ってきたのかな?」「自分は何を持っているだろう?」「誰かこれ使う人いるー?」)
・違いがあるほどにありがたい
・リーダーは固定されず、状況に対して最も適した人が、一歩前に出て、その時のリーダーになる。
(硬い雪なら、鉄スコップくん。運ぶ時は、幅広スコップちゃん。疲れた時は、マッサージ師さん。)
・ひらかれた参加型のネットワークをつくり、対話による調整・創発を行う。

つまり、未知・不確実な問題が増えてくる時は、メンバーひとりひとりが個性を持ち、その組み合わせ・役割の入れ替えによって、刻々と変化をする状況に対してしなやかに対応ができる「ゆるやかでひらかれたつながり」の必要性が高まってきます。



■それを踏まえて、今後、必要となる「学び」とはなんでしょうか。

前者の状況ならば、私たちに必要な学びとは、「しつけ教育」です。

・今は持っていない新しい素質を身につけること
・最適化された”正しい”形へと整形
仮に私たちが植物のタネだとすると、人工着色料を飲むことです。
「学び=がまん(外から内へ)」です。いわゆる勉強のしんどさはここにあります。

後者の状況であれば、「れりごー教育」です。

Let it go 〜ありのままで〜 です笑

同じく私たちを種に例えるなら、これは滋養に富んだ土壌をつくることです。
もともと十分に持っている素質を解放し、ありのままに伸びたいように伸びていくための、ゆったりとしたスペースです。自分のありのままの強みを最も活かせる”スコップの形”、”色”を育てます。

これって言葉を変えれば「ありのままでいいんだよ。十分だよ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」ってことです。

本来持っている可能性を取り戻すという意味で、「学び=癒し(内から外へ)」です。
こんな感じで、試験管の中でされてきた「しつけ」からの脱出を助けていく必要があります。


■人間観の見直しが必要
お気づきかもしれませんが、前者と後者では、そもそも人間に対する見方が異なります。

前者は、人は初めは何も持たないので、外からもらう必要があります。

「ありのままを認めるだけでは、成長がないじゃないか」という人は、前者の世界観からの言葉です。

後者は逆です。人は生まれながらに、その内側に豊かに生きるために必要な素質を十分に持っています。

(2018.6.24の私のメモそのまま)
俺らには既に十分に必要なものが備わっているのに、それを忘れちゃってるだけだから、新しく身に付けるべきものなんてなにもなくて、むしろ望まない憑き物を手放して、ただ取り戻すためのスペースを持てればいいんだと思うんだよネ

つまり、人には、自己実現する力が、既に十分に力が備わっている。

この人間観に立てば、私たちは、基本的には、「あろうとするものを、止めなければいい」だけなんです。


「レリゴー」です。

■私の活動は、上記の前提に立つもの

それは、対話を通じて「ありのままで人と関わる練習」です。

心理的な安全を保った場で、本音を聴き合うを練習します。
たとえば、具体的にはこうです。

・受容すること
「ありのままでいいよ。どんな風になっても、そばにいるよ」「自分の早さでいいよ」

・励ますこと
「ちょっと怖いのかな。怖いよね。でも、したいと思うなら、していいんだよ。やっちゃえばいいよ!やっちまったの?笑 おめでとう。」  

・気づきを促すこと、捉え直すこと
「苦しいのは、何かが変だということに気づいているからだよね。」「緊張しているのは、それだけ一生懸命にやりたいからだよね」「すっごく悩むのは、よくなろうとしている証拠だよね」

・癒すこと
繰り返される「しつけ」や「教育」という病を直すこと。東洋医学・漢方的なやり方で、体質改善。自分ではない形になってしまった人を、その人が本来持っている/持ちたいと思う”スコップの形”を取り戻すための癒し。「これは自分の形じゃないから、ヘンだよ、痛いよ」と感じること、伝えることがとても大切。

こういったことをできる人を増やしていけば、より「ありのままで生きることこそが大切だ」というコミュニケーション習慣、つまり、関わり方の文化をつくることができると考えています。


■関わりは、沈黙の中で発酵する
対話と言いつつも、上記の行為は、見た目上は、言葉と言葉の間、つまり、沈黙のさなかに起こっていることが多いです。むしろ、沈黙によって行われてこそ、大きな変化をもたらすとすら思うこともあります。

だから、対話による「ありのままを取り戻す練習」は、たまに「放置プレー」に見えます笑
現象としてはほとんど見えないし、聞こえないことがあります。

しかし、そこには意味のある行為が起きているんです。

沈黙というのは、お互いが聴き合っているという、アクティブな行為です。

その中で、言葉を超えた、大きな「意味の流れ」が起きています。言葉を変えれば、誰かと一緒に沈黙をするということは、その意味の流れを感じ取ためのスペースを与えあう、共有するということです。
平たくいえば、その人が自らのありのままが持つ可能性に向き合って気付いていくことを信じて、静かな時間をともに漂うだけで、私たちは十分に学べるということです。

「ただただ、ありのままでいいんだよ。十分だよ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」


私はこの関わり方を信じ抜きます。

その先には、

ひとりひとりがまるっとありのままに、つながって生きられる、しなやかな強さを持つ社会があると思います。

まだ語られていない物語は何ですか

ご覧いただきありがとうございます。反町キヲイチロウのブログです。群馬ローカルのママチャリで行ける範囲で、参加型の場づくりを練習しています。

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