いのちは既に満杯だ
Art of hosting 2019 Nagaraがおわりました。くそつかれましたが、それ以上に「タガが外れた感」があります。振り返って意味づけたいことか山ほどあるのですが、明日から名古屋〜南山大学ですので、今の時点での学びを書き留めておこうと思います。ありがとう。あ、「マステキー」(まあ、素敵!)
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命は既に満杯だ
機械は最初ばゼロだ。何もないところ、持ち寄られたパーツが組みたててつくられる。不足しているものは外部から補われる。命は既に満杯だ。あなたは、母と父の内側から生まれてきた。全ての可能性を持つ者から、全ての可能性を持つ者が生まれつづけている。その命の糸が一度として途切れたことがなかったからこそ、あなたが存在している。それは奇跡だ。
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それは内側から現れる
このことは多くの支配的な思い込みを変えてしまうかもしれない。たとえば、学習観。
学びが外からやってくるものとすれば、あなたはたくさんのものを食べて消化する必要がある。誰かから何かを奪いたくなるかもしれない。
しかし、もし学びは内からやってくるものだとすれば、あなたは自分の器を整える必要がある。あなたの内側から現れる途轍もない美しさをを受けとめるために。
あなたの内側から現れる可能性はあまりに美しく、偉大であるために、あなたひとりでは迎えきれないかもしれない。だから、あなたはそれを他者に与えていきたくなるだろう。
しかし、もし学びは内からやってくるものだとすれば、あなたは自分の器を整える必要がある。あなたの内側から現れる途轍もない美しさをを受けとめるために。
あなたの内側から現れる可能性はあまりに美しく、偉大であるために、あなたひとりでは迎えきれないかもしれない。だから、あなたはそれを他者に与えていきたくなるだろう。
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私たちは自分から学ぶことができる。もし自分自身の内側に注意と敬意を払えば。
多様な自己がいることを認め、「違う自分」を器の中に招き入れよう。自分の中にコミュニティーをつくろう。「いないことにしていた自分」に気付き、彼/彼がこの世界に生まれて出てきたことの肯定的な意味に耳を済ませよう。それが「つながりの質」を高める実践のひとつだ。それは、あなたと私の内側の問題であるということ。
そうやって自分の中の全体性を取り戻したとき、私たちは健やかであり、答えも終わりもないゲームを踊り続ける美しい生き物らしさを取り戻す。
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あなたを新たな世界へと連れ出す手は、あなたから伸びている
自分の内側に意味がわからない自分を見つけた時ほど祝福しよう。それは新しい世界を生きる自分だ。彼と対話し、共にそれに新たな意味を紡ごう。くれぐれも、あなたは彼を既に知っている世界に引っ張り戻したり、いなかったことにしてはならない。あなたが出かけていくのだ。彼と、新しい世界に。彼はあなたを待っているし、よく見れば招待の手を伸ばしているではないか。違いを大切にするつながりは、もう既に自分のなかにある。
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あなたはあなたを他者の中に見ている
多くの社会的な分断は、自己の内側にある分断を他者に投影した結果として表出しているものかもしれない。たとえば、自分の中に「自由がない」という思い込みに支配される人は、自由にしている人に対して嫉妬心を持つし、自由がなさそうにしている人に対して苛立ちを感じる。
本当にそうだろうか?と問う
全ての私は自由でないように感じてしまうことがある。でも、本当にそうだろうか。自分の中のいくつかの階層をもぐっていくと、どこかのレベルで「自由な私(彼)」がいることに気付く。それはパターンから外れている。繰り返されるフラクタル構造の中に、フラクタルでない部分を見出す。それが肯定的な逸脱だ。私は、彼が生きやすい器を整えてみる。あるいは単純に祝福してみる。その直後に「彼」から素早くフィードバックをもらうこと。ここで勇み足はせずに、進んでみては戻り、進んでみては戻る。「つっついてみる」という感じ。それで彼が喜び始めたなら、それは小さな変動となる。 その変動は、複雑に影響しあってシステム全体を揺らがせていく。そして気づいた時には、はじめにあったフラクタルな構造からは全く異なる構造が出現していることに気づく。それがラディカルチェンジ(根っこのほうからパターンを変革させること)になるのだと思われる。
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私が持つ「自分の範囲」とはどこか、ということに注意を払おう。その縁(エッジ)を意識しよう。そこが私の世界の僻地であり、創造的な最先端だ。
クリスと風呂でハイタッチしたときのことが印象的だ。私たちは、どのように世界の様々な言語や文化が世界を意味づけているのかという話が大好きだから。彼が気に入ったのが、日本語の「自分」という言葉だった。それは、個人を志向する西洋言語にはない概念であると。「自分」とは強いて言えば、collective-self、myselves。我(エゴ)でも他者でもない、つながりの範囲。「つい自らのことと思って共感してしまう関係性の範囲」のこと。それは茶の美学…たとえば、主客一体…においてみられるような、集合的な意識のこと。その意味で「自分」を捉えると「自分の中にコミュニティをつくる」という言葉の質感と範囲は広がりを見せはじめる。
なぜ私たちがハイタッチしたか。それはアートオブホスティングの「四層の実践とは、自分を拡張するためしくみ」に他ならないということに気づいたからだった。この時の拡張とは、直線ではなく、スパイラルアップ(らせんを描いて上昇しながら、円環を大きくしていく動き)のイメージである。
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他者の中に自己を見出す
私がもつこの素質は、私に多くの苦痛と試練を課してきた。欠陥品として、生まれる世界を間違ったと自分を責めることもあったけれど、しかし、それこそか自分が世界に貢献する可能性であるということを認めようと思う。「それはまるでこんな感じ」、その感覚を一片の詩で残しておこうと思う。
Broken acorn
I walk on the soil
As if walking on myself
I see an ant climbing up a tree
As if seeing myself climbing up myself
I found a broken acorn
And I found myself broken
But it’s not the only one
As long as I listen to the sound
壊れたどんぐり
大地の上を歩く
自分の上を歩いているかのように
木を登る蟻を見る
自分を上る自分を見るかのように
壊れたどんぐりを見つけた
私が壊れているのがわかった
でもそれしかないわけではない
私がその音に耳をすませている限り
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