Art of Harvesting講座に行ってきた①

とってもお世話になっている(一社)サスティナビリティ・ダイアログのゆりさんが講師を務めるArt of Harvesting講座に行ってきました。

今回受講してみて、ハーベスティングの技術・思想はこれからの社会に必要となってくるものではないかなあ、と思いましたので、ハーベスティングとはなんぞやから、どう使うとどう機能するのか等について、自分なりに書いてみます。


なお、これは客観的な記録ではなく、「私はこう受け取りました」という主観的な解釈を表現したものであることにご留意ください。

ハーベスティングとは直訳すると「果実を収穫すること」という意味になるかと思いますが、具体的な一例はこちらです。
NPO法人市民プロデュースのあきこさんによる、今回の講座のハーベスティングの一部です。講座での話し合いの進行と同時に、ひとりひとりの発言やその場で起きていることが、リアルタイムで描かれていったものです。成果物だけ見れば、「絵付きの板書」ですが、それだけだと大いに取りこぼしがあるようです。

私の理解によると、ポイントはその運用の仕方にあって、それらは、例えば「Art of Harvestingの8プロセス」等という形で体系化されています。
特に印象的だったのはプロセス6.「実りを摘みとること」から7.「実りにひと手間かけること」です。それは次のような言葉で説明されていました。

「ハーベスティングは場への投げかけであって、それを基に話し合いをして真価を発揮する」


言葉を変えれば、「ハーベスティングは書いて終わりではなく、書いてから始まる」ということです。実は私自身、こうしたいわゆる板書に対しては、いわゆる「レコーディング=記録、議事録」としての機能に注目しがちでした。「おお〜、きれいに書けたね」と皆で成果物を褒めて、終わってしまうこともあったと思います。
そうではなく、その真価は、受け取り手が「私はこう理解したよ」と、皆に対して、その場で、主観的な理解を見せしめることのようです。そうして表現されたものを、場に返してみて(harvest back)、話し合ってから、始まるというのです。

何が始まるのか。以下のことが可能になると私は理解しました。

場の理解の一致や集合知の生成を促し、私たちが「より賢い一歩」を踏み出すこと。


あなたは、相手が伝えたいことを、きちんと理解できていますか?「相手が言ったこと」ではなく、「相手が伝えたいこと」です。誰かが話した言葉を、その人の意図そのままに、もれなく、理解することは、私は難しいことだと思いました。
それは、今回行った、自分の目では見れないものを、人から与えられた指示を頼りに描いていくワークを通じて体感するのが早いと思いましたが、説明するとすれば、こういうことだと思います。

ひとつは、話し手が話していることは、「小さな領域」でしかないということです。「心の中では分かっているのだけど、言葉にできない」という、もどかしい思いをしたことはないでしょうか。私はそういうことが、なんだかとっても多いです。それは、よくある例えで言うと、氷山のようなものだと感じました。水面の上にはコンテント(私が話していること)。水面の下は、プロセス(私が伝えたいこと、頭の中では理解していること、言語にできていること、無意識・感覚etc.) があります。水面から下にいくほど、その領域はより抽象的に、より大きくなるイメージを私は持ちました。
そこで、ハーベスティングを用いることは、それらを下から上方向に具現化して、伝わる形に近づけていく効果があると思いました。声なき声を聞こえるようにし、形なきものに形を与える、というとカッコつけ過ぎかもしれませんが、グラフィックを使えば、まだこの世界では言葉になっていないものでも、視覚的に明らかにすることができるかもしれません。

もうひとつは、聞き手が、基本的には自分のフィルターを通して、相手の話を理解しているということです。フィルターとはそれぞれのプロセス(文脈や背景、つまり、信念や経験、社会的地位、利害関係、気分、体調etc.)であり、人の内側と外側(社会)にあって形成と変化を続けており、同じフィルターを持つ人はおそらくいないでしょう。氷山のたとえで言えば、私たちは誰かの言葉を聞いている時、実は「自分の」氷山の水面から下の部分を参照して、わかったつもりになっていることが少なくないのだと思います。逆に、なんでわかってくれないのか、とイラついたりすることも、私はあります。相手の水面下のものを見ようともせずに。
そこで、ハーベスティングは、「ひととおり話して聞いて」を終えただけでは、なかなか気付きづらい、互いの認識のズレやモレを顕在化してくれるものだと思いました。たとえば、描かれたものは観ながら、「そういうつもりで、私は言ってないよ」「私はこう聞こえたよ」「あ、僕はこういうことに気付いたよ」。実際に、今回のハーベスティングも、一旦描かれたものを皆で見ながら、書き足したり、そこから新たな話が発展したりという様子が見られました。

少し脱線すると、このような「伝えたいことを、伝える/理解する難しさ」について思い出したことがあります。大学時代に専攻した社会言語学的な立場によれば、「モノゴトに意味を与えるのは、モノゴトや言葉そのものではなく、それを取り囲む背景・文脈」である、という考えです。つまり、背景が異なれば、同じものを見ても、意味付けが異なるということになります。

例えば、これは、なんでしょうか。
この図だけを、複数人でぱっと見た時に、理解は一致するでしょうか。これはイスなのか、テーブルなのか、建物なのか、はた織り機なのかは、あるいは、何かの生き物の一部なのか。その背景となる情報次第で、理解のされ方は変わるはずです。
そうすると、言語や文化が違えば、そもそも見えている景色すら違う可能性もあります。以前、オーストラリアの友人に、日本のキノコがたくさんある写真を見せて「エノキ」「シイタケ」「マイタケ」etc.と私が一生懸命説明したものを、「マッシュルーム」の一撃で片付けられたことを思い出します。私には10個に見えているものは、誰かには1個に見えているかもしれないのです。

あるいは、文脈によって理解が異なるどころか、文脈がないとそもそも理解ができないこともあります。それは使用言語が違うといったスケールでなくても、身近なところでもあります。たとえば、こんなやりとりです。

A「お子さんはいますか?」
B「はい」
A「いいですね」
B「犬は飼っていますか?」
A「はい」
B「それは残念です」



このやりとりは、意味を成していますか?

私は意味不明だと思いました。


  



そこに「不動産屋に訪れた夫婦が、受付の店員と、アパート物件探しのための会話をしている場面」という文脈が与えられるまでは。

こういったことを踏まえると、私たちの身の回りには、背景や文脈を十分に汲み取らずに「わかったつもり」「わかられたつもり」のことばかりにも思えてきます。YesとNoで片付けられる話ならまだしも、「なぜ」「どうやって」「どこまで」等について、わかったつもりのまま、それを行動に移す時、その中には合意していないはずの「合意事項」などのミスコミュニケーションが潜在しているかもしれません。その後、どこかのタイミングで、それが実際のトラブルとして表出してしまった時には「もうここまで来たのだから、このままやるしかない」、なんてことも起きえます。そこで立ち止まれればよいのですが、関係性が硬直していると、それはしづらいものです。そして、そのままアクションにした途端に、ひどく反発する人々が出てきて、しまいには、「あったことをなかったことにする」ような力技で調停をしなくてはならない事態に陥いるのです。
だからこそ、「なんだか違う気がする」という意見こそ、きちんとハーベストして、早い段階で起こるべき対立や葛藤をできる限り顕在化することで、予め存分に関係者にやりあってもらうことは、結果的に、パフォーマンスの納得感、実効性、持続性を高めるのではないでしょうか。

もちろん、柔軟で素早いチームや組織であれば「とりあえずやってみてから考える」ような試行錯誤によって歩んでいくやり方もありますが、限られた時間や資源の中で「回復に大きなコストがかかる過ち」が起きてしまうことは、徒労感や無力感を生んでしまうと思っています。また、そういう事態って、組織によっては、まるでシーシュポスの神話みたいに、パターンとして繰り返されたりする気がしますが、それは悲観的過ぎるでしょうか。

まとめますと、アートオブハーベスティングは、きちんと関係者各人がどう認識しているか、その背景にあるものは何かを見える化して、共有することによって、場の理解の一致や集合知を生み出すことを助け、私たちが「より賢明な一歩」を踏み出し、「気長に見えて、最短の道」を行くことを可能にさせてくれるものである、と私は理解しました。

そして、私は、それを今後の社会において、「ないよりは、あったほうがいい」の要素に留まるものでなくなってくる、と考えています。複雑で不確実、変化の早い時代に、同じ背景や価値観を自動的に共有できる共同体の崩壊や、個へのパワーシフトが進むことによって、いよいよこうした場づくりがないと、どうにもしがたい事態は増えてくると思うからです。あるいは、そういった必要性についての理解はともあれ、需要増加、という観点で言えば、2020年の教育指導要領の改訂(「主体的・対話的で深い学び」の重視など)の影響は大きいのではないかと思います。


私としては、自分の近所でそういうシーンを先行してつくっていくためにも、今回学んだことは、頭の中にしまっておかずに実践していきたいと思いました。


以上が、今回を通じて私が考えたことです。これを踏み台に、なにか新たな気づきを生むようなやりとりが生まれれば、それはハーベスティングとして「機能した」ということになるのだと思っています。


長々とお付き合いいただき、ありがとうございました😊以上、それ違うぞ、なんか変だぞ、みたいな意見こそお待ちしてます。ちょっと怖いですけどね。

(撮影 じゅんじゅん)



なお、これは余談なんですが、上で述べたような氷山の話等をよくよく考えると「私たちは詰まるところ、全てを分かり合うことはできない」のかもしれません。言葉を変えれば「私は、私以外の人間に、網羅的かつ全体的に理解されることはない」と思えてきます。ややもすれば、それはなんだか、絶望的に孤独な感じが、しないでもありません。しかし、その前提にしっかりと立って、コミュニケーションを組み直すことは、かえって、無理に相手に譲歩したりせずに、自分の素直な思いが理解されたり、伝わることも増えてくることに、つながっているような気がするのですが、どうですかね。特に、わかったふりが多い関係、友達、夫婦仲こそ、きちんと「わかりあえない他人」として関係に投資したり、相手の「水面下」に注意したりとか、そんな感じでしょうか。


なおなお、参考に、今回の先生方のホームページを参考にキュレーションしておきます。

サスティナビリティ・ダイアログさん
市民プロデュースさん
日本で初めて今回お話した技術や役割をお仕事にされた、グラフィック・ファシリテーター®のゆにこさんにもお会いできたので、そちらも。グラフィックファシリテーションの効能がわかりやすくまとめられています。 

まだ語られていない物語は何ですか

ご覧いただきありがとうございます。反町キヲイチロウのブログです。群馬ローカルのママチャリで行ける範囲で、参加型の場づくりを練習しています。

0コメント

  • 1000 / 1000