即興演奏と私、 対話と協働のある社会、 そして アーティストのはたらきについて。
【AoH2018牧之原から気づいたことシリーズ②】
■即興演奏と私
Art of Hosting and Harvesting Conversations and works that matter2018牧之原(大切なお話とはたらきをホストしハーベストするためのアート)
から、日常に戻ってから10日目、自分の変化を感じています。
日々の暮らしや仕事で、私や誰かがわがままに、勝手に何かをはじめたり、やめたりする時に、素直な好奇心やワクワクした気持ちを持つようになりました。「わあ、どうしてこの人は今これをこのようにしたいんだろう?」って。
これまでは、そういうことが起こると「きみはダメな子だ」「和を乱すべきでない」という声が自分の中のどこかから聞こえていました。失敗することへの恐れ、遠慮、評価、責めること、非難。
そういうものを手放しつつあるようです。そうしたら、不思議な嬉しいことがあって。
わたし、即興演奏、ジャムセッションがより楽しくなったし、得意な気になりました🎉(上手にはなってません)
演奏してて気づいたんです。「あ、いつもなら私、ここで遠慮してたなあ」と。皆でまぁるくなるのが好きだから、その丸が私のせいで壊れるのが怖くて、一歩前に出ていくような演奏ができなかった。
今はこう思います。
私は、自分がしたいことを、「自分の間」で、表現していい。
その「間」ということを考え始めたら、おもしろくて。
その「間」が私にGOを出す時、私は個人的に「今こうだ」思っており、それと同時に、その場にいる人たちの集合的な意識が「今そうだ」と思っているであろうことを察知しています。それは私が何かを見せつけたいだけの「エゴのタイミング」ではありません。自らの分「自分の間」で音を放ちます。
その間を外すことはありますが、外れたことを察知できるので、そこから学ぶことができます。そうやって、その精度を上げていけるのです。
■対話と協働のある社会
それと関係していることで、いわゆる「対話と協働」がつくる世界観ついての理解が変わりました。
これまで、私は、「みんなでまあるく対話したら、何か素敵なことが起こるよね。世界は平和になるよね」と、思ってました。かわいくてラクな感じ。頭の中が、お花畑でした。
今は、そういうことが繰り返されるから、変化が起こらないし、対話が陳腐化するのだと思っています。「ワールドカフェをしても、変化もアクションも起きないじゃん」。もっと残念なのは、「対話ってただのアリバイづくりか、ガス抜きかよ」みたいな。その時、対話とは、「行動しなくていい理由/させない理由」をつくるものです。
きっとそうじゃない。「マジで、変化のための行動を起こしたい個人が、その意図に対して適切な形で、必要なときに、対話を呼びかける」。「それに応えた人が対話に参加する。それでよかったら、一緒に手を動かす」
今の私が持っている、対話と協働がある世界のイメージはこうです。
「僕はこれしたい」「わたしはこうたいわ」「おれはああしたい」という凸凹△がいろいろなところから自発的に飛び出して、重なり、ぶつかる。「自然の中で生きることの豊かさと厳しさ」のようなものが、そこにはあるはずです。自ずと関係性は、混沌に近くなる。それで、必要な時に、必要としている人が「まぁるくなろうよ」と呼びかけて対話がはじまる。そのくりかえし。ただの繰り返しではなく、スパイラルアップ。静かなユートピアではなく、もっと動的な過程なんです。
それって「管理による秩序ではなく、対話による秩序がある社会」だ、思って。「凸凹△のための◯がある社会」です。力は権力でなく、共感とクリエイティブさが持っている。
これどこかで読んだよな、、と思い出したのが、「ヨハン-ガルトゥング紛争解決学入門-コンフリクト・ワークへの招待」です。
曰く、平和とは、自分がおのれの能力を開発することができ、さらに他人と調和しながら、全ての葛藤と紛争を、力によるものではなく、対話を通じて解決できるよう共同体をつくっていくことである。
平和とは、紛争が創造的かつ非暴力的に転換されうるための前提である。その場合、【焦点は、平和より紛争にある。】
平和は、創造者にも破壊者にもなりうる人間の条件である紛争を、建設的に扱うための(内面的・外面的)文脈である。
平たくいうと、私が欲しい秩序や平和って、「ケンカがない状態」や「ケンカはやめようよう」という反応がある状態のことではないです。
「ケンカはあるけど、俺らはいつだって、それをクリエイティブなやり方で共感的なストーリーに転換できるよね」という絶え間ない活動なんだなあ、と。
■アーティストのはたらきについて
「ケンカしてこそだよ。俺らはいつだって、それをクリエイティブなやり方で共感的なストーリーに転換できるんだから」という活動をしている人を知っています。
ジャックホワイトだ!(またでた!)
※https://youtu.be/0abmC8LKJOg
奇しくも、彼の新曲のタイトルは「協働(corporation)」
彼はどのように対話と協働をしているのだろうか、と思いながらライブを観ているうちにを氷解してきのは、彼がイノベーターであり、即興演奏の天才だと言われる理由です。
彼は、アーティストとして、極めて優れたホスティングとハーベスティング的なアプローチをしているのではないか、と思うのです。
たとえば、
・彼は、演奏のところどころで、みなの参加を呼びかけます。
・常に聴衆の聴こえない声に耳を澄ませ、集合的な意識を感じとろうとしているように見えます。
・彼はめちゃくちゃに暴れますが、必要なときにはバンドメンバーと目線と音、あるいは気配で対話しています。
・セットリストを予め用意せず、「(演奏すべき曲は)聴衆が教えてくれる」と語り、十八番のヒット曲すらその場のアレンジで破壊しながら演奏します。
・そうやって、「なあ、今ここにいる俺らの声はこうじゃないか」と、場に返しているように見えます。
・その反応が芳しくなかったら、ただちに曲や演奏を変えています。
彼のライブがとても民主的なものに見えてきました。
最近の彼の曲名は「connected by love」とか。自分で変化を起こすタマのない批評家が「社会派気取りか」というけれど、そんなのは放っておいていい。
なぜなら、こういった曲は、結果的に社会性を帯びているものであって、彼はアーティストとして「声を出そうぜ」とよびかけ、「その声を拾い集めて、音楽と物語にして返している」だけではないかと思うからです。
そういうはたらきをしたいなと思って、今後は恥ずかしげもなく「私はアーティストです」と言うことにしました。
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